広島に住んでいる人なら、子どもの頃に「楽々園遊園地」や「呉ポートピアランド」に行った思い出があるかもしれません。しかし、いつの間にかそれらの遊園地は姿を消し、今ではショッピングモールや公園に変わっています。
なぜ、広島の遊園地は次々と閉園していったのでしょうか? この記事では、広島の遊園地産業がたどった歴史を振り返りながら、その背景にあった理由を考察していきます。
※この記事に掲載している画像はイメージです。実際の団体、個人、店舗、商品などとは異なる場合があります。
鉄道会社が牽引した「遊園地」黎明期
戦前から戦後にかけて、多くの遊園地は鉄道会社の集客施設として誕生しました。これは、沿線地域の活性化と自社の鉄道利用を促す目的がありました。
広島でも、広島電鉄が開発した「楽々園遊園地」がその代表例です。1936年に開園したこの遊園地は、当時は「東洋一の塩田」と言われた場所に造られ、ジェットコースターや観覧車、プール、スケートリンクなど、多彩なアトラクションで人気を集めました。
また、広島市内の酪農会社が運営していた**「チチヤス」も、大正時代から親しまれたレジャー施設でした。チチヤス乳業株式会社が運営していた「チチヤス遊園地」**は、牛の放牧場も備えた広々とした公園で、身近なレジャースポットとして多くの市民に愛されました。
当時はまだレジャー施設が少なかったため、遊園地は家族やカップルにとって一大イベントの場所でした。これらの遊園地は、まさに広島のレジャー文化を牽引する存在だったのです。
時代の変化とテーマパークの台頭
高度経済成長期からバブル期にかけて、レジャーに対する人々の価値観は大きく変わりました。単なる乗り物だけでなく、物語性や世界観を持つ「テーマパーク」が全国でブームとなります。
この流れの中で、廿日市市に1974年に開園したのが「ヒロシマナタリー」です。アメリカの港町をイメージしたデザインと、季節ごとに変わるアトラクションで、若者を中心に人気を集めました。しかし、テーマパークの競争激化やレジャーの多様化といった時代の変化の波には逆らえず、惜しまれつつ閉園に至ります。
また、1992年に開園した「呉ポートピアランド」も同様です。ヨーロッパの港町をテーマにした美しい景観と、ジェットコースターなどのアトラクションを組み合わせた新感覚のレジャー施設でしたが、バブル経済の崩壊も重なり、残念ながらわずか9年で閉園することになります。
広島の遊園地が次々と姿を消した背景には、主に以下の要因が考えられます。
- 運営コストの増大: 大規模なアトラクションの維持費や人件費が経営を圧迫しました。
- レジャーの多様化: 娯楽が多様化し、映画館やゲームセンター、カラオケなど、より手軽な遊びが増えました。
- 時代の変化への対応の遅れ: ユーザーのニーズが「遊園地」から「テーマパーク」へ移行する中で、コンセプトやアトラクションの刷新が追いつかなかった施設もありました。
- 少子化の影響: 子どもの数が減少し、ファミリー層の顧客が減少しました。
現代の遊園地に求められるものとは?
現代の広島で、老若男女に愛される遊園地として成功しているのが、福山市にある「みろくの里」です。特に人気の高い「いつか来た道」は、昭和30年代の街並みを忠実に再現したエリアで、懐かしさを感じる大人たちに強く支持されています。
みろくの里が成功している理由の一つは、単なる乗り物だけでなく、「懐かしさ」という独自のコンセプトを打ち出し、他の施設にはない独自性を確立したことにあると考えられます。
閉園した遊園地の跡地は、今では**「ひろでん楽々園ショッピングタウン」や「呉ポートピアパーク」として、人々の生活に溶け込んでいます。また、ヒロシマナタリーの跡地は、複合商業施設「マリーナホップ」**となりましたが、2024年2月に閉館しています。
形は変わっても、かつて多くの人々の笑顔があった場所に、今も賑わいが続いているのは、なんだか嬉しいことですね。
広島の遊園地産業の変遷は、時代の流れや人々の価値観の変化を映す鏡のようなものかもしれません。皆さんの思い出の遊園地は、何という名前でしたか?


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