【広島市中区】消えた町名と新しい住所。千田町「住居表示の変更」が語る街の歴史

消えた町名の住所看板 名前
消えた町名の住所看板

広島の街を歩いていると、古い看板や建物の名前に、現在の地図にはない町名を見つけることがあります。特に、大規模な再開発が行われた広島市中区の千田町(せんだまち)エリアは、住居表示の変更によって街の呼び名が整理されてきた歴史があります。

なぜ「東千田西町」などの町名は姿を消し、現在の形になったのでしょうか。住所という「街の履歴書」から、千田町の変遷を紐解いてみましょう。


住居表示の変更で変わった「街の区切り方」

かつての千田町周辺は、今よりも細かく、そして複雑な境界線で町名が分かれていました。しかし、戦後の復興や都市開発が進む中で、広島市は「分かりやすく、機能的な街づくり」を目指して住居表示の変更を実施しました。

これにより、大きな通りや川といった明確な目印を基準に区画し直され、バラバラだった小さな町名が「千田町一丁目〜三丁目」「東千田町」といった現在の形へと整理・統合されていったのです。


変更によって整理された町名のビフォー・アフター

千田町エリアで実施された住居表示の変更によって、かつての名称がどのように変わったのか、その代表的な例をまとめました。

住所整理による町名の変化と主な特徴

  • 千田町一丁目〜三丁目: 電車通り(御幸橋通り)を中心に、周辺の小さな町名や東千田西町の一部などが統合されて誕生しました。現在は中区を代表する閑静な住宅街・文教地区となっています。
  • 東千田西町(ひがしせんだにしまち): 現在の東千田町一丁目の大部分。広島大学の敷地西側を含んでいました。
  • 東千田東町(ひがしせんだひがしまち): 現在の東千田町二丁目の大部分。京橋川に面したエリアです。
  • 南千田町(みなみせんだまち): 現在の南千田東町・南千田西町に分かれる前の総称です。
  • 御幸橋通り(みゆきばしどおり): 現在の千田町二丁目・三丁目付近。路面電車が走る大通り沿いを指す地名でした。
  • 更生町(こうせいまち): 現在の千田町一丁目付近。戦後の復興期に、文字通り街の「更生」を願って付けられた名前でした。
  • 西平野町(にしひらのまち): 現在の平野町と千田町一丁目の境界付近。平野町の西側部分を指していました。
  • 下竹屋町(しもたけやちょう): 竹屋町の南側、現在の千田町一丁目に組み込まれたエリアです。
  • 竹屋町・平野町との境界整理: 千田町一丁目付近は、かつて隣接する竹屋町や平野町と境界が入り組んでいましたが、住居表示によって直線的な境界線へと整理されました。

千田町周辺で「範囲や呼び方」が変わった関連町名

旧町名現在の状況備考
大手町九丁目千田町一丁目かつての大手町は九丁目まであり、その南端は現在の千田町に飲み込まれました。
鷹の橋国泰寺町・千田町地名としては残っていませんが、電停や商店街の名前として今も千田町一丁目の北側で親しまれています。
富士見町(旧)千田町・竹屋町かつての富士見町の一部が、整理によって千田エリアの北端に組み込まれました。

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住所から読み解く「街の記憶」の楽しみ方

公式な住所からは消えてしまった「東千田西町」「東千田東町」といった名前ですが、今も街のあちこちにその名残が隠れています。

古いビルの定礎プレート、路地裏に残る錆びた消火栓の表示、あるいは地域に根付いた「〇〇西町内会」といった名前。これらは、住居表示が変わっても、その土地に住む人々が大切に守り続けてきた「街の記憶」そのものです。

散策中にこうした名残を見つけることは、まるでタイムカプセルを見つけるような、知的な楽しみを与えてくれます。


結びに:変わり続ける街と、変わらない愛着

広島市中区・千田町の住居表示の変更は、広島が歩んできた発展の証でもあります。

利便性のために住所が新しくなっても、その土地が持つ固有の雰囲気や歴史が消えるわけではありません。新しい住所「千田町」という名前に馴染みながらも、時折ふと足元や看板に目を向け、かつての町名に想いを馳せてみる。

そんな風に街を多層的に楽しむことで、広島での暮らしや旅は、より豊かで奥行きのあるものになるはずです。


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